望月街道のマンボウ
私が幼い頃から通っていた床屋のある場所は、望月街道という車1台しか通れない宇連川沿いの細い
道を進み、地元の人がマンボウと呼んでいる手掘りのトンネルの真下にあった。
岩場をくり抜いたトンネルで、手掘りの跡が残っている珍しい隧道だった。
今は安全のためにコンクリートを吹き付けてあるので昔の趣は無くなってしまった。
この隧道は望月街道が完成した明治19年(1886年)に竣工された長さ34m、幅員3mの小さなトンネル
で、西側には柱状節理も確認できる。
この道は宇連川沿いの岩場が迫る風光明媚な道なので、小学生の頃は自転車でよく遊びに行ったも
のだ。
望月街道は、この街道を開設した新城市長篠の豪商・望月喜平治の名に由来する。
彼は、宇連川右岸側に新城市長篠字岩代付近から新城市川合に至るおよそ14kmの道を開設した。
これまで道の無かった槇原地区の岩山に隧道を開く難工事を行い、その工事費用に私費を投じて賄っ
たことが彼の偉業として高く評価されている。
この工事は明治10年(1877)に着手し、明治19年(1886)に完成するまでに9年の歳月を要した。
喜平治は文政5年(1822)に豊川流域屈指の豪商であった長篠の望月家に生まれ、明治26年(1893)に71
歳の生涯を閉じた。
この望月家は、長篠の戦いで参戦した武田方の武将の望月氏一族と関係をもつとされ、江戸時代に豊
川の舟運の隆盛とともに商売を始め、屋号を久保屋と称した豪商となっていた。
喜平治は初め「喜左衛門」(愛称:まき様)と名乗り、商人としての才能を遺憾なく発揮した彼は、「江戸や
大坂になくても、長篠の久保屋にはある」という評判をとるまでに成功し、一日に米を24俵つくことが
できる3階建ての大水車場を建て大米穀商となるまでに至った。
その後、名を「喜平治」と改名し、吉田藩主から「久保屋が米を止めたら、吉田の息が止まる」とまで言
わせるほどであったとされる。
明治時代に、こんな立派な人がいたなんて知らなかった。
望月喜平治にあやかりたいものである。
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